昨年の2022年11月26日(土)に開催いたしました東京鹿城稲門会・記念講演会の様子を「東京と佐賀」の記念誌へ寄稿しました。こちらでも紹介したいと思います。
佐賀県立鹿島高校出身者の同窓会・東京鹿城会の有志と同校、早大卒の同窓会・東京鹿城稲門会は合同で2022年11月26日、伊藤之雄(ゆきお)京都大学名誉教授の「大隈重信」の講演会を東京・千代田区にある都市センターホテルで開催した。
講師の伊藤名誉教授は大隈の魅力を以下のように評価する。しっかりとしたビジョンを発展させる人。常に明るい気持ちを持ち、失敗にくじけない人。自立心が高く、自分が通った藩校弘道館に批判的な目を持った自由な思想と常に学ぶ努力をする人。ただ、大隈の真実の偉大さは分かりにくい。「大隈についての個々の事実から形成される印象が、論理的に統合された明確な像を結んでおらず、正当に評価されていない」と話された。
従来の大隈論は、1926年(昭元)、大隈翁八十五年史編纂会(代表市島謙吉)の『大隈翁八十五年史』で作られた、「民」の政治家の枠組みに引きずられている。実際の大隈は、佐賀藩に生まれ、維新後政府で参議兼大蔵卿として敏腕を振るった後、イギリス風の政党政治を目指し、立憲改進党を設立し、早稲田大学を創設した。藩閥を批判するとともに「官民調和」と東アジアの自由な貿易圏の設立を唱え、国民の人気を博し、2度の組閣をした。
大隈は自立した国民に支えられた“小さな政府論”を理想としており、自由党系の急進的な民権運動には批判的だった。英国には自立して物を考える有権者が多数存在するが、日本にはまだそういう人が少ないと見たからだ。第2次大隈内閣が二十一カ条要求を中国に突きつけ軍事力を背景に大半をのませ、中国のみならず米国や英国からの不信感をもたれることになったのは、大隈の本意ではなく、後継者加藤高明外相を潰さないための失敗である。
1871年(明4)11月に出発した岩倉使節団は、本来は大隈使節団を作ろうとして大隈が企画したものだった。伊藤博文の横やりで、最終的に岩倉具視を全権として、英語の出来る伊藤も加わって実行され、大隈は参加できなかった。その後、右足を失い、西洋渡航の道は断たれてしまう。西洋に行けなかった彼は、英語ができる矢野龍渓(文雄)などや欧州から帰国した人たちから情報収集し、「西洋通」として話していた。伊藤名誉教授は、「近代日本の形成に大隈の役割は大きいが、もし大隈が西洋を実際に体験していたら、政治・外交の両面でさらに凄みのある活動ができたであろう」と述べる。
参加者は約2時間の講演に聞き入った。70代女性は「知らないことがたくさんあり、勉強になりました」と述べ、即売会の『大隈重信』上・下(中公新書)を購入した。
この企画の始まりは、19年に東京鹿城稲門会会員から「中央公論新社から伊藤之雄著の『大隈重信』(上・下)で出ているので、読みなさい」との指示されたことである。著書を読んでいくうちに、「1896年(明29)5月11日に佐賀中学校鹿島分校で生徒に演説」とあった。佐賀中学校鹿島分校こそ、わが母校。さらに大隈の最初の妻美登さんは、七浦郡音成村(現鹿島市大字音成)出身と記されていた。この縁もあり、発行元の中央公論新社へ突撃メールをして、同社経由で伊藤名誉教授と連絡がとれ、快諾していただいた。今回の講演会は新型コロナの影響で、オファーから約3年を要して、実現した。
【東京鹿城稲門会幹事 尾崎弘彰】
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